2020年11月15日日曜日

西川図書館ディスプレイ(1:2015年)

 

 長い間このブログを更新しておりませんでした。申しわけありません。
私は新潟市内のいくつかの図書館でのボランティア活動を続けていますが、そのひとつに西川図書館の正面入り口のディスプレイ・ボランティアがあります。
 西川図書館は新潟市が大合併した2005年に開館した、県内有数の規模を誇る図書館ですが、入り口が無機質で殺風景と評判が悪く、ここを何とかしたいと思って「飾りつけをさせてください」と図書館に申し入れをしました。「ぜひお願いします」ということで、2015年秋から季節ごとに年4回展示替えをしながら活動を続けています。
 これまでの展示の写真を見たいというご要望が利用者の方や図書館関係者から寄せられ、昨年は写真と制作物を展示する「図書館デコ展」を西川と巻で行いました。遠方の方からのご要望もあるので、このブログを活用して今後展示の写真を掲載していくつもりです。
 ご笑覧いただけましたら幸甚です。

【2015年秋】
 最初は図書館の事務室と自宅からかき集めた色画用紙で、紅葉のモビールを作りました。何もなかった時と比べると、これだけでずいぶんと華やかになりました。「ようこそ」というメッセージを伝えたい…それがこの活動の動機です。


【2015年冬】
 
 

2014年4月7日月曜日

電子書籍

 私は本を読むことよりも、本という物体が好きで、図書館や古本屋のそそり立つ黴臭い書架の間を歩いたり、壁中本棚で囲まれているような家に行ったりすると、とても気分が高揚します。本の1冊1冊の装丁や活字の並べ方、紙の手ざわりも「本」の味わいのうちです。だから電子書籍なるものが出始めたときは、「そんなもん、本じゃない」と鼻でせせら笑っていたものでした。
 しかし最近、わが夫が隣のベッドで電気もつけず、小さなまな板みたいなものをツルツルといじりながら「読書」しているのを横目で見ているうちに、「ちょっと触らせてよ」と言わずにおれない誘惑に駆られました。
 その小さなまな板みたいなものは、いわゆる「タブレット端末」と呼ばれているもので、電子書籍専用のものと、iOS(Apple社)やAndroidGoogle社)などのOS(インターネットに接続するための基本ソフト)を搭載したよりコンピュータの性能に近いものとがあります。価格は1万円~5万円ぐらいまで。このタブレットを購入すれば、電子書籍(無料も有料もあり)をダウンロードでき、それを画面上で読むことができるというわけです。
 さて、バカにしていた電子読書、実際にやってみたら意外にも快適でした。特に最近老眼鏡を作った私は、酸化して黄ばんだ紙に2段組みで印刷されているような本はすでに敬遠し始めていたのですが、このタブレット端末の文字のなんとくっきり見えることよ! 画面が発光するタイプのものは、暗いところでも楽に読むことができます。字の大きさも自由自在に変えられます。
 大きさは新書版ぐらいのものから大学ノートぐらいのものまでいろいろありますが、単行本一冊持ち歩くより軽量であることは間違いありません。しかもタブレットには何十、何百冊の電子本を入れておくことができるのです。
 老人にとって目に優しいだけでない、もう一つのメリットがあります。最近、私の周辺で「断舎利」を断行する友人(私の友人ですから5、60代が多い)が増えています。年を取るとやらねばと思う身辺整理。本も多くなりすぎると探すのが面倒になってくる、いやどこに入れたのか記憶がなくなって見つからない…電子書籍はそういうお悩みをも一挙解決に導くかもしれません。電子書籍で手に入るのなら、紙の本は潔く処分してしまえ!ということです。
 というわけで「年をとったら電子書籍」です。さらにOS搭載のタブレットなら、テレビ、ラジオ、音楽の試聴も可能、メールやテレビ電話もできるし、カメラにもなり録音もできます。(よっていろんなものが捨てられます。)パソコンはちょっと面倒という人にも手軽に使えることと思います。
 「電子書籍時代」はすでに足早にやってきています。現在紙の本を並べている図書館は、それにどう対応すればよいのでしょうか。人々が、家で電子書籍を読むようになれば、図書館に足を運ぶ人はますます減っていくのでしょうか…。

 私は、本の専門機関である図書館には果てしなく仕事はあると思います。もしも電子書籍が一般化して世の中から紙の本が消えても、図書館、そしてそこで働く司書は、本の水先案内人として人々に本の情報提供をしていく役割を負い続けることでしょう。それこそ前頁にも書いたように、「ありすぎて選ぶことができない」状況が、現在の出版状況であると思います。利用者のニーズをつかんで選りすぐりの本を提供する─厳しい資料購入予算であればあるほど、司書の選書力が期待されることでしょう。
(2012年12月記)

2014年2月17日月曜日

小さい図書館

 先日、新潟市立西川図書館協議会のメンバー3名で、西蒲区、南区の図書館・図書室7か所を回ってきました。4000㎡を超える大きな図書館から、公民館の一室に設けられた小さな図書室まで、さまざまな形態の図書館を見ましたが、使い勝手や特色がそれぞれ違っていてとても面白く、思いがけない「お楽しみツアー」となりました。
 回った図書館は西川図書館、巻図書館、岩室図書館、潟東図書館、中之口図書室(以上西蒲区)、月潟図書館、白根図書館(以上南区)です。これらは新潟市との合併前はそれぞれ一市町村であった地域に、ひとつずつ建てられた館です。旧新潟市域に比べると、独立館の数や設備において非常に恵まれていると言えます。このうち白根、西川、岩室が大規模で本格的な図書館。巻、月潟、潟東が小規模館。中之口は無人・非オンライン化の図書室です。
 私は個人的に、岩室図書館の重厚な図書館らしい雰囲気が気に入りました。開館してから15年で、今回見学した中では月潟図書館と並んで古いものですが、傷みは目立たずお金をかけた建物であることがわかります。本も基準通りオーソドックスに並べてあり、私は探しやすいと思いました。しかし、一緒に行った1人は「暗い雰囲気」と言い、好みは人ぞれぞれだと思いました。
 一方、昨年開館した巻図書館はまだ本が十分に買い揃えられてないため、書架に空きがあってさびしい感じですが、ほとんどの本がピカピカに新しくて気持ちがいい。しかし、その次に新しい西川図書館も同様ですが、図書館には「古い本」も必要なのだと思いました。岩室の郷土資料コーナーを見たときに、その厚みを感じました。
 新潟市はすべての図書館(一部図書室は除く)がオンラインでつながっているので、一枚の図書館カードでどこででも貸し出し返却ができます。私たち3人は、借りるつもりで行ったのではないのに、書架の間を歩くうちについつい本を手にしてしまい、気づいたら借りまくっていました。さて、どこの図書館で一番本を借りたでしょうか? 私たち自身も意外だったのですが、月潟と潟東の2館でした。新潟市の図書館19館の中で最も小規模の2館です。
 この2館では歩きながら本がどんどん目に飛び込んできました。何倍も本があるような大きな図書館でなく、小さな図書館で本が借りやすかったのはなぜでしょうか。ひとつには小さいがゆえに全体が見渡せるということ。もうひとつは、展示が効果的になされていたこと。月潟も潟東も合併前は村で、小さな地域です。図書館員も地域の利用者の顔が見えているのです。利用者のニーズをしっかりつかんでいるという感じが、展示に現れているように思いました。
 もうひとつ、私があとから気付いた理由は、最近話題になったシーナ・アイエンガーの「選択の科学」の理論。「人は多すぎる選択肢からは選ぶことが難しい」というもの。本はいっぱいあった方が幸せ…と疑わない私でしたが、ありすぎる本の中から読みたい本と出会う確率というのは逆に低いのではないかと思いました。利用者の顔が見えている図書館員が、長年培った勘をも大事にしながら選りすぐりの本を置いてくれている小さな図書館こそ、身近な町の図書館として理想ではないかと思いました。
(2012年12月記)

2014年1月20日月曜日

おまかせ図書館

 最近「おまかせ民主主義」という言葉をよく耳にします。日本は民主主義社会であると言っても、国民が政治家や行政におまかせしっぱなしで、形だけの民主主義を作ってきたのではないか、という反省から、このような言葉が使われるようになったようです。
 その意味では図書館にも、利用する市民が行政に運営をおまかせしてただ使っている、あるいは全く使っていないという状況があるように思います。財政難の自治体で、「使われない図書館」の予算が真っ先にカットされていくその責任は、行政の努力不足だけでなく、市民の「意志不足」にも原因があるのではないでしょうか。自治体の政策を決めていく主体は、本来市民であるはずです。その市民はいったいどのような声を上げていくべきなのでしょうか。

 図書館について、「どのように利用したいか」を問うアンケートを市民全員にとってみることを想像してみましょう。必ず「本音」で答えてもらいます。私が想像する答えは…

・試験前の勉強場所として使いたい(うちじゃ落ち着いて勉強できないんだよ)
・新聞や雑誌をたくさん置いてほしい(新聞・雑誌はとらないで済む)
・人とおしゃべりができるといい。お茶も飲めるといい。(喫茶店より安くて長居ができる)
・暇なときにくつろいだり居眠りしたりしたい(1人で家にいてもすることがないし…)
・ベストセラーはたくさん置いてほしい(買わないで済むように)
・マンガを置いてほしい(図書館ってマジな本しかないんだよな)
・小さい子どもを連れて行かれる場であってほしい(屋内の遊び場が少ないので)
・おしゃれな雰囲気にしてほしい(気持ちよく過ごせる場がほしい)

 図書館を積極利用している市民が少数である自治体では、たぶん上位はこのような回答が占めるのではないでしょうか。

 先日、知人が佐賀県武雄市図書館を見学に行き、そのレポートを送ってくれました。この図書館はTSUTAYA(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)に運営委託をしたことで全国から脚光を浴びています。知人のレポートを読むと、上記の市民ニーズをある程度満たしているように思います。
 行政が市民のニーズをとらえ、そのニーズから施策を実行することは正しいと思います。私は、武雄市図書館の新しい挑戦を評価しますし、日本の図書館界に投げかけたものは大きいと思います。ただし、これらの市民ニーズが「なぜ図書館という場で実現されなければならないか」について、今後図書館運営に携わる人たちがリードしながら、考えを深めていくべきでしょう。
 私は上記の市民ニーズを否定する気は毛頭なく、むしろ大切に取り上げていくべきと思っています。しかし、この「表面的ニーズ」の奥にある「潜在的ニーズ」を発見し、顕在化していくことが大事ではないかと思っています。人々は上記のニーズをなぜ「図書館で」実現したいのか…想像してみましょう。

・知的な雰囲気が好き
・いろいろな知識や教養を得たい(それを仕事や生活に役立てたい)(人から賢いと思われたい)
・本をたくさん読んでみたい。面白い本に出会いたい
・社会の役に立ちたい。(人から必要とされたい)(地域の一員として活躍したい)
・自分の能力を向上させたい(仕事や勉強に役立てたい)(資格を取りたい)
・自分の子どもを賢い子にしたい
・人と違うことをやってみたい
・自分と同じ考えの人を探したい

 まだまだたくさんあると思います。図書館利用者は、学校や仕事場あるいは家庭といった日常所属する組織から離れてやって来るわけですから、個人としての潜在的欲求を抱えており、それをどう引き出していくかは「仕掛け」が必要です。それを仕掛ける「リーダー」は、とりもなおさず図書館で働く司書をはじめとする図書館職員であると同時に、利用者自身でもあるべきです。図書館職員と図書館をよく利用する市民とが協働して、図書館の本来的な機能が発揮されるような利用・活用へと市民を導いていくことで、地に足が着いた図書館の永続的な発展が可能になるのではないでしょうか。

 図書館の「リーダー」が仕掛けていくものとしては、いろいろなことが考えられます。日常的に行われている図書の展示。利用者の潜在的ニーズをつかんで、これにひと工夫加えることにより、書架の本が飛躍的に動き始めるかもしれません。ボランティアの協力を得ながらさまざまなイベントも企画できるでしょう。内容は「本」にこだわる必要はありません。なぜなら、世の中のありとあらゆるものが本の形で図書館にあるのですから、何を切り取っても図書館につながらないものはないはずです。もちろん広報も積極的に行います。地域には編集技術や発信力をもつ人がたくさんいるはずです。そういう市民の力も借りれば百人力。とにかく、図書館に来る人だけを相手にしていては、図書館職員は仕事を半分しかやっていないと言われても仕方ないでしょう。そのほかの図書館を知らない多数の市民に知らせていく、その人たちを図書館に呼び込む、そのための「仕掛け」をたくさん打っていく必要があります。それには、図書館職員は地域に出かけていき、地域の情報やニーズをつかみ取ることが必要でしょう。ほかの公共施設─学校や公民館、福祉施設、体育施設などとの連携も大切です。

 図書館は国の施策としてなぜ無料原則で国民に提供されているのでしょうか。原点はやはり「民主主義」を堅固なものにするためであったはずです。民主主義とは、国民が主体となるということ、国民ひとりひとりが自分の考えをもって発言し、自分の生き方を選び取り、それによって民主的な国家が安定的に運営されていくということです。そのための知識や情報を自ら得ることのできる場が、図書館なのです。

 そのような、民主主義の砦ともいえる図書館を行政に「おまかせ」してきたこと、あるいは市民から「おまかせ」されてきたことを反省し、新しい発想と仕掛けで図書館をあるべき方向に導いていきたいと願う年の初めです。
(2014年1月記)

2013年12月25日水曜日

動く絵本

 今年二十歳を迎える娘が、ときどき子どもの頃に読んだ本の話をすることがあります。先日、ふと思い出して話し始めたのは、「イエス・キリストの生涯を描いた絵本がずっとうちにあって、保育園に行っていたくらいの時に何回も見ていた」ということ。「これまでキリスト教にはあまり触れなかったけれど、その絵本のおかげでイエスがどういう人であったかはわかった」「その絵本の絵はとてもリアルで、十字架に架けられた場面はすごく怖かった」と言います。「で、その本どこにある?」
 さて、どうしよう。そんな本がうちにあっただろうか…いくら考えても思い出せません。「ひどい!捨てたの?」と娘に責められ、仕方なく絵本が詰まっている本棚を探してみました。くまなく探してもそのような絵本は見つかりませんでしたが、棚に収まらない画集などの大型本が本棚の上に乗せてある中に、影絵作家・藤城清治の『イエス』と題した画集が見つかりました。娘に「きれいな影絵の本ならあったけど」と言うと、「違う。絵はとても写実的で生々しかった」と言い張るのですが、とりあえず椅子に上ってその本を取り出して娘に見せました。
 それを手に取った娘は一瞬驚きのあまり絶句したあと、爆発するような大笑い…「これだ!」二人で笑い転げながら、その本を二人で見ていたころのことを一生懸命思い出しました。

 娘が「お話が書いてあった」と思い込んでいた本は、言葉はひとつも書かれていない画集でした。でも、当時その絵をひとつひとつ見ながら、どうやら私が「(あやしい?)解説」をしたのだそうです。それが娘の頭の中には「イエスの生涯」の物語として保存されたということ。いやはや、子どもに語る大人の責任やいかばかり…。
 もうひとつの発見は、その画集の絵は影絵ですから、黒い切り絵の中にところどころ鮮やかな彩色が施されていてとても美しい絵でしたが、幼いころにそれを見ながら私の「解説」を聞いた娘の頭の中で、その絵はリアルに動いていたのだ、ということです。娘が怖かったと思った磔刑の場面は、確かに暗い色調ではありますが、血など一つも流れていないさらりときれいな絵でした。でも娘の頭の中で動いていたイエスは、釘打たれた手足から血を流し、「神よなにゆえ見捨てたもうや」と叫んでいたのかもしれません。十字架の下で泣きわめく民衆の声も聞こえていたのでしょうか。
 よく「語り」(ストーリーテリング)をする人から、「お話を聞いている子どもたちは、頭の中に自分自身で描いた登場人物を動かしているのよ」という話を聞きます。たとえ絵本の絵を見ていても、その絵は静止画像ではなく、お話の展開とともにそれらの絵が子どもたちの頭の中でリアルに動き出すのだ、ということを改めて認識しました。

 石井桃子さんが著作の中で、「プー(=「クマのプーさん」)のあの丸々とした、あたたかい背中はいつもそばにありました。その背中は、私たちが悲しいとき、疲れたとき、よりかかるには、とてもいいものなのです」と語るプーもまた、その本をこよなく愛して翻訳した石井さんや、それを読んだたくさんの子どもや大人たちの周りで、あたたかい体温を放ちながら飛び回っているのでしょう。

 本の登場人物は、私たちの頭や心の中で生きて動くのです。しかも私だけのオリジナルな画像で。
(2013年1月記)

2013年12月8日日曜日

図書館と学習室

 普段はガラガラの図書館でも、試験前になると学生たちでいっぱいになります。いつも図書館に来て、借りた本を静かに読んでいこうとする利用者にとって、この時期は頭痛の種。座れないだけでなく、おしゃべりなどマナーをわきまえない若者たちには腹が立ち…。この状況が続くと、図書館への苦情がどんどん増えます。「学生たちを追い出せ」「勉強していたら爺さんに怒鳴られた」…図書館はどう対応するべきでしょうか。「自習禁止」の張り紙を出す図書館もあるといいます。しかし図書館を利用しているのか、単に勉強部屋代わりに机椅子を利用しているのか、判断は難しところです。

 19世紀イギリスの小説家、ジョージ・ギッシングの『三文文士』や『ヘンリー・ライクロフトの私記』には、売れない文筆家たちが日がな一日図書館で過ごす様子が描かれています。ある人物が、貧乏ゆえに図書館のトイレの洗面台で手も顔も体も洗っていたところ、「手以外は洗わないでください」と張り紙を貼られた、という記述もあります。
 原発事故後、節電のために図書館など公共施設で過ごしましょう、という呼びかけを新潟市も含め各地の自治体が行いました。図書館は涼みに行ったり温まりに行ったりするところともなりました。
 図書館は本を利用する場所である、というのが原則です。本を利用しながら勉強する、本を利用しながらくつろぐ、本を利用しながら時にまどろむ…いろんな利用の仕方があってよいと思います。しかし、単に学生の「勉強部屋代わり」、若者の「居場所代わり」、主婦たちの「茶の間代わり」、ホームレスの「休憩所代わり」…図書館がそうなってしまった日には、図書館を愛する利用者としては「情けない」の一言に尽きます。
 「○○代わり」の図書館は、その図書館や地域自体にそうなった責任もあるのではないでしょうか。本来的な目的で利用する人々がたくさん出入りする図書館であれば、「○○代わり」に使うために来る人はだんだん肩身が狭くなり、来るのをためらうか、あるいは本の利用者になっていくでしょうから。
 図書館が勉強部屋代わりになっているもうひとつの問題は、とりもなおさず学生たちにとって「勉強部屋」がないということです。できれば学校が自習室を放課後や休日・休暇中も開放してくれたらよいと思いますが、それも管理的に難しいのでしょう。であるなら、このニーズに応えるのは自治体の生涯学習課(公民館)などの責務ではないでしょうか。

 開館してから1年を迎えた新潟市立巻図書館は、建設前から図書館の「講座室」と学生用の「学習室」は分けて設置してほしいとの要望が強く出されていました。2階建ての建物の1階部分の使用しか認められなかった図書館には、「講座室」(のちに「学習・講座室」と命名された)1室が設けられ、2階部分の使用については、広く市民からの意見も募ったところ、「学習室」を設けてほしいとの要望が多く出されました。しかし、様々な事情から、今も2階部分の利用方針は定まっておらず、空き部屋の状態のまま放置されています。講座室や閲覧コーナーの席が学生でいっぱいになるたびに苦情が増え、また一方で学生からの開館時間の延長を望む声が出される巻図書館の課題は、早急に解決しなければならないでしょう。
(2012年11月記)
図:『ヘンリー・ライクロフトの私記』The Private Papers of Henry Ryecroft(DODO PRESS)

2013年10月21日月曜日

地域づくりを担う図書館

 2012年10月19日に行われた「新潟県公立図書館協議会委員連絡協議会」に参加しました。都合により遅刻して行ったため、初めの基調講演は途中からしか聞けませんでしたので、そのあとの事例報告についてお伝えします。
 群馬県高崎市立群馬図書館館長の秋山美和子さんが、地域との連携により図書館が様々な事業を展開した事例を報告されました。行政職である秋山さんが館長として着任してからの4年間、「地域づくり」のために行った事業は、実にユニークなものでした。
 まず、子どもたちのための「夏休み宿題相談」を教員の協力を得ながら実施しました。理科自由研究と読書感想文についてのパンフレットを作成。そのパンフレットを活用しながら「わくわく自由研究」「すらすら読書感想文」などの講座を夏休みに行ったというもの。
 次に高崎市制110周年記念事業として「地域のたからもの発見隊」の活動を地域の人たちとともに行いました。これはクイズや、地域のたからものは何かを問うアンケートを実施し、その結果を見て関連講演会などを企画して、パンフレットも作成するという、エネルギッシュな活動でした。
 さらに、地域の昔話や歴史などを公民館と連携して紙芝居にしたり、地元出身の若手作家の講演会の開催など、正規・非常勤合わせわずか11人の職員体制ながら、地域の人々や関連機関と連携しながら多彩な事業を展開しているとのことでした。
 図書館が行う「事業」というと、本に関連するもの─例えば作家の講演会や読み聞かせ講座、あるいは絵本原画展など─というイメージが強かったのですが、秋山さんの事例報告を聞いて驚いたのは「本」の話は前面に出てこないということ。まずは、「地域に聞く」という徹底した姿勢です。図書館が地域に役立つために姿勢を低くして手を差し伸べているという感じを持ちました。
 私たちはつい、「図書館といえば本」という固定観念にとらわれます。図書館は本を貸し出すところですからそれは当たり前ですが、じゃあなぜ私たちは本を読むのか、というところまで考えたことがあっただろうか…と反省させられました。日々、地域の中で生活している私たちが、図書館を利用する目的は何なのか。本に何を求めるのか。本から何を得られるのか。本をよく読み、図書館をたくさん利用する人なら、その答えを知っています。でもまだまだ図書館が自分にとってどう役に立つのか知らない人々が地域の中にはいっぱいいます。その人たちに呼びかけていくためには、図書館は「姿勢を低くして」地域の中に入り込み、地域の声を聴かなければいけないのだ、と思わされました。
 秋山さんは、図書館の通常業務の中でこのような事業を展開していくのは、正直に言って職員にとっては大変負担であるとおっしゃっていました。しかし、図書館の職員だけが頑張るのではなく、利用者、ボランティア、地域の人々、学校・公民館など関連機関等と協力し合うことで、大きなエネルギーになっていくことを示されました。そこで旗を振るのが館長であることは間違いありませんが。
 新潟市の図書館は、先日「事業仕分け」の俎上に上がり、民間活力導入拡大が求められ、ますます「守り」の態勢に入っていくのではないかと心配しています。こういう時であるからこそ、「地域に役立つ図書館」さらには「地域づくりを担う図書館」として積極的に打って出なければいけないと思います。

図書館を拠点に活動するグループによる民話語り(新潟市南区)
 秋山さんは、「セレンディピティ」という言葉を口にされました。これは偶然に起こったことや出会った人を自分の運命の中に引き入れるというような意味の言葉です。「会話の中にヒントがある」「出会いを大切にする」「なんでも挑戦する」ことを大事にされているとのこと。前項の立石さんのお話にも通じますが、偶然の具体的な人との出会いから、人と人とがつながり、社会が大きく動いていく─そのようなこの世の「真実」を経験しながら、図書館が生き生きと華やいでいくことを期待します。
(2012年10月記)