2013年12月25日水曜日

動く絵本

 今年二十歳を迎える娘が、ときどき子どもの頃に読んだ本の話をすることがあります。先日、ふと思い出して話し始めたのは、「イエス・キリストの生涯を描いた絵本がずっとうちにあって、保育園に行っていたくらいの時に何回も見ていた」ということ。「これまでキリスト教にはあまり触れなかったけれど、その絵本のおかげでイエスがどういう人であったかはわかった」「その絵本の絵はとてもリアルで、十字架に架けられた場面はすごく怖かった」と言います。「で、その本どこにある?」
 さて、どうしよう。そんな本がうちにあっただろうか…いくら考えても思い出せません。「ひどい!捨てたの?」と娘に責められ、仕方なく絵本が詰まっている本棚を探してみました。くまなく探してもそのような絵本は見つかりませんでしたが、棚に収まらない画集などの大型本が本棚の上に乗せてある中に、影絵作家・藤城清治の『イエス』と題した画集が見つかりました。娘に「きれいな影絵の本ならあったけど」と言うと、「違う。絵はとても写実的で生々しかった」と言い張るのですが、とりあえず椅子に上ってその本を取り出して娘に見せました。
 それを手に取った娘は一瞬驚きのあまり絶句したあと、爆発するような大笑い…「これだ!」二人で笑い転げながら、その本を二人で見ていたころのことを一生懸命思い出しました。

 娘が「お話が書いてあった」と思い込んでいた本は、言葉はひとつも書かれていない画集でした。でも、当時その絵をひとつひとつ見ながら、どうやら私が「(あやしい?)解説」をしたのだそうです。それが娘の頭の中には「イエスの生涯」の物語として保存されたということ。いやはや、子どもに語る大人の責任やいかばかり…。
 もうひとつの発見は、その画集の絵は影絵ですから、黒い切り絵の中にところどころ鮮やかな彩色が施されていてとても美しい絵でしたが、幼いころにそれを見ながら私の「解説」を聞いた娘の頭の中で、その絵はリアルに動いていたのだ、ということです。娘が怖かったと思った磔刑の場面は、確かに暗い色調ではありますが、血など一つも流れていないさらりときれいな絵でした。でも娘の頭の中で動いていたイエスは、釘打たれた手足から血を流し、「神よなにゆえ見捨てたもうや」と叫んでいたのかもしれません。十字架の下で泣きわめく民衆の声も聞こえていたのでしょうか。
 よく「語り」(ストーリーテリング)をする人から、「お話を聞いている子どもたちは、頭の中に自分自身で描いた登場人物を動かしているのよ」という話を聞きます。たとえ絵本の絵を見ていても、その絵は静止画像ではなく、お話の展開とともにそれらの絵が子どもたちの頭の中でリアルに動き出すのだ、ということを改めて認識しました。

 石井桃子さんが著作の中で、「プー(=「クマのプーさん」)のあの丸々とした、あたたかい背中はいつもそばにありました。その背中は、私たちが悲しいとき、疲れたとき、よりかかるには、とてもいいものなのです」と語るプーもまた、その本をこよなく愛して翻訳した石井さんや、それを読んだたくさんの子どもや大人たちの周りで、あたたかい体温を放ちながら飛び回っているのでしょう。

 本の登場人物は、私たちの頭や心の中で生きて動くのです。しかも私だけのオリジナルな画像で。
(2013年1月記)

2013年12月8日日曜日

図書館と学習室

 普段はガラガラの図書館でも、試験前になると学生たちでいっぱいになります。いつも図書館に来て、借りた本を静かに読んでいこうとする利用者にとって、この時期は頭痛の種。座れないだけでなく、おしゃべりなどマナーをわきまえない若者たちには腹が立ち…。この状況が続くと、図書館への苦情がどんどん増えます。「学生たちを追い出せ」「勉強していたら爺さんに怒鳴られた」…図書館はどう対応するべきでしょうか。「自習禁止」の張り紙を出す図書館もあるといいます。しかし図書館を利用しているのか、単に勉強部屋代わりに机椅子を利用しているのか、判断は難しところです。

 19世紀イギリスの小説家、ジョージ・ギッシングの『三文文士』や『ヘンリー・ライクロフトの私記』には、売れない文筆家たちが日がな一日図書館で過ごす様子が描かれています。ある人物が、貧乏ゆえに図書館のトイレの洗面台で手も顔も体も洗っていたところ、「手以外は洗わないでください」と張り紙を貼られた、という記述もあります。
 原発事故後、節電のために図書館など公共施設で過ごしましょう、という呼びかけを新潟市も含め各地の自治体が行いました。図書館は涼みに行ったり温まりに行ったりするところともなりました。
 図書館は本を利用する場所である、というのが原則です。本を利用しながら勉強する、本を利用しながらくつろぐ、本を利用しながら時にまどろむ…いろんな利用の仕方があってよいと思います。しかし、単に学生の「勉強部屋代わり」、若者の「居場所代わり」、主婦たちの「茶の間代わり」、ホームレスの「休憩所代わり」…図書館がそうなってしまった日には、図書館を愛する利用者としては「情けない」の一言に尽きます。
 「○○代わり」の図書館は、その図書館や地域自体にそうなった責任もあるのではないでしょうか。本来的な目的で利用する人々がたくさん出入りする図書館であれば、「○○代わり」に使うために来る人はだんだん肩身が狭くなり、来るのをためらうか、あるいは本の利用者になっていくでしょうから。
 図書館が勉強部屋代わりになっているもうひとつの問題は、とりもなおさず学生たちにとって「勉強部屋」がないということです。できれば学校が自習室を放課後や休日・休暇中も開放してくれたらよいと思いますが、それも管理的に難しいのでしょう。であるなら、このニーズに応えるのは自治体の生涯学習課(公民館)などの責務ではないでしょうか。

 開館してから1年を迎えた新潟市立巻図書館は、建設前から図書館の「講座室」と学生用の「学習室」は分けて設置してほしいとの要望が強く出されていました。2階建ての建物の1階部分の使用しか認められなかった図書館には、「講座室」(のちに「学習・講座室」と命名された)1室が設けられ、2階部分の使用については、広く市民からの意見も募ったところ、「学習室」を設けてほしいとの要望が多く出されました。しかし、様々な事情から、今も2階部分の利用方針は定まっておらず、空き部屋の状態のまま放置されています。講座室や閲覧コーナーの席が学生でいっぱいになるたびに苦情が増え、また一方で学生からの開館時間の延長を望む声が出される巻図書館の課題は、早急に解決しなければならないでしょう。
(2012年11月記)
図:『ヘンリー・ライクロフトの私記』The Private Papers of Henry Ryecroft(DODO PRESS)